朗々と流れる空気の震えが耳を通り、ゆっくりと暴れて胸のうちを掻き乱していく。
緩やかな旋律に表現されるのは狂わんばかりの激しさ。
夜の冷たい空気を切り裂く音。
静かに、とても静かに。
ランプの薄明かりに照らされた廊下で、立ち尽くした。
出来るだけ気をつけても、石張りの廊下に響く足音は消せない。
それもまた夜の静寂を破る音であるのに、聞こえる音色のように心を掴む事は無い。
無機質で規則的な音。自分のようだと苦々しく思った。
誘われるままに進めば、だんだんと大きくなる音色が何故か焦燥感を煽る。
いくぶん足早になる自分に呆れながらもその歩を緩める事はしたくなかった。
扉は客間のものとしてはひどく質素だろうと思う。自分好きのする作りであるから仕方が無い。
この身と共にあり続ける屋敷は繁栄と衰退に呼応して装飾され、また薄汚れた。
慎重に扉を開く。長い年月の成す軋みを消すことは出来なかったが、音色が途切れる事は無く、何故か安心した。
与えた部屋は思ったより暗い。際のランプに目をやれば明かりが落とされていた。
光を失い、灰色の硝子だけが壁にぽつんと付いている。
ふいに吹き込んだ風に目をやれば大窓が開いて、白いカーテンが緩やかになびいていた。
昼には多く日を取り込むよう、この窓がある部屋を客室にしたのだ。
そこから覗く世界は驚くほどの闇で、だから日本は見事にそれに溶け込んでいる。
締め付けれられるような音色は彼の国の吐息から発せられ、それは無粋な来客にも止まりはしないようだ。
静けさと激しさを共に抱く笛の音が薄暗がりの部屋を満たしている。
聞き惚れる音であった。
「…お耳汚しを。」
細い声が聞こえた。笛が何時の間に下ろされたのか、気付きもしなかった。
つい先ほどまで耳に届きもしなかった風の音がやけに大きく聞こえる。
「いや。その、素晴らしかった。」
表情を読むのに聡い日本は、味気の無い短い言葉でもその真意を読み取ってくれる。
彼は多少照れの入った声でありがとうございます、といつものように丁寧な礼を述べた。
その顔がふっと陰るのを見過ごさなかったのは、俺にしては上出来だと思う。
「…どうした。」
「あ、いえ…。」
気付かれるとは思わなかったのか、無意識だったのか。
ともあれ日本は何も無い、とこれもまたいつものように言ったが、問いかける目で見やれば困ったように笑った。
「昔ほど吹けぬ、と。」
「笛か?十分だと思うが。」
「いえ、指が…。」
指が、動かなくなりました。そう言って造形の良い指を目線に持ち上げ、見る。
「笛も鼓も舞も、疾く廃れてしまいましたから。」
いつか吹けなくなるでしょう。
そうぽつりと呟く様は余りにも静かで、しかしその言葉に込められた想いは強い悲しみだった。
それこそ、笛の音のようだ。静けさの中の荒々しさ。
掲げられた手に触れれば、日本は驚いたように目を大きく開いた。
構わずにゆるく握る。手袋越しだが、その手は少し冷たい。
「…ドイツ、さん?」
困惑した声に顔を見れば、目が合った途端にその頬が赤く染まる。
そう反応されると、こちらもむず痒いものがあるのだが。
「他にも、吹けるのか。」
「え、ああ、はい。譜が無いので、一つ二つですが…。」
「…聞かせてくれないだろうか。」
音の無い雷光のように、静かに激しく夜を切る音。
消え逝きつつあるその音を。
日本は黙ってこちらを見据え、そして小さく笑った。
「ドイツさん、その、手を…。」
握ったままの手をとるか、音色をとるか。
選択の至極困難な二択であったが、思案の後、今は手を離す事にした。
雲が流れたのか。
真っ暗だった空に月が煌煌と輝いているのを見た。
ご本家の妖怪話を読んで、話の筋を決めたもの。
廃れたものは彼自身からも失われていく。